熊本大学言語学研究室
Dept. of Linguistics, Kumamoto University

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 このウェッブサイトでは熊本大学言語学研究室を紹介します。

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[Why]  このページ。分野決定前の文学部1年生や、受験生向けに「言語学」という研究分野を紹介。
[Who]  担当教官についての研究・教育関係の最新個人情報。研究室在籍の学生の統計データ。
[What]  開講科目紹介。学部専門科目が中心。卒業論文・修士論文のテーマ一覧など。
[How]  授業外の学習・研究の方法。特にパソコン・インターネット利用の情報、学外サイトへのリンク集など。
(一部のページは学内からのアクセス専用です。)
[Now]  更新情報と、研究室からの最新情報、オンライン公開資料。

>> 所在地・連絡先

860-8555 熊本市黒髪 2-40-1 熊本大学文学部言語学研究室
[Tel/Fax] 096-342-2458 (文学科研究事務室)[email] kodama(at)kumamoto-u.ac.jp

>> 卒業生のみなさんへ

 卒業生の近況情報交換サイトは、学外に別に設ける予定です。電子メールアドレスを児玉宛お知らせください。

● 言語学 Linguistics

2003年度言語研究入門(言語学)

 歴史上知られている人類で、言葉を使わなかったとされる集団は存在しません。一方、出合った他の集団が、自分たちに通じない言葉を使っていた、というのも、遥か昔からさまざまな場所で多くの人々が経験してきたありふれた事実です。つまり、「言葉を使う」ということは、生物としてのヒトが遺伝的に(生得的に)受け継いできた能力であると見られる一方で、その言葉がすべて同じである必然性は無い、ということになります。言葉そのものは遺伝せず、伝達の過程で変化して姿を変えていきます。
 しかし、千差万別に見える言語も、くわしく調べてみると、その変異の可能性は無限ではない、ということがわかります。どのような言語であれ、ヒトが発したものをヒトが受け取り、情報を共有するための通信体系である以上、ヒトという生物のもつ生理的な機構や、知覚の枠組みによって制約されるからです。ヒトが未知の言語を学んだり、他のヒトに教えたりすることができるのも、お互いにヒトである、ということが暗黙の前提になっているのです。このような認識を根拠にして、肉声で発せられた言葉であれ、何らかの媒体に記録された文書であれ、等しく人間の言語能力の顕われとしての言語事実と捉え、これらの資料を観察して共通点と違いを分析することにより、「言葉を使う動物」としてのヒトの特性を理解することを目指すのが、言語学という人文科学です。

● よくある質問 Frequently Asked Questions

>> まず日本語と系統関係のある言語を見つけることが日本の言語学の課題ではありませんか?

 ヨーロッパの古典語であったラテン語やギリシャ語と、インドや古代ペルシャの古典語であったサンスクリットやアヴェスタ語が、実は共通の言語から変化して分かれた同系統の言語である、という18世紀末のヨーロッパ人の発見が、近代言語学の出発点です。この発見は、19世紀の西洋に一大センセーションを巻き起こしました。西洋や東洋で、「完全な言語」として規範ともいうべき権威を与えられていた言語が、他の言語 (vernacular) と同様に、変化して(=訛って)できた言語だ、ということを意味していたからです。言語は変化し、枝分かれする、という前提に立てば、同系統の言語の間に見られる共通点は「受け継がれたもの」、違いは「個々の言語で生じた変化によるもの」ということになります。現在話されているすべての言語がそれぞれに経てきた変化を明らかにする方法を与える学問として、比較言語学は、普遍性よりは「個」それぞれの物語への関心が高まった19世紀ヨーロッパで、もっともファッショナブルな文系学問領域となりました。文明開化の日本も、いちはやく大学に言語学講座を開設しています。
 その後の日本語に関する言語学的研究は、日本語の他の言語との系統関係を明らかにすることができませんでした。しかし、このことは日本の言語学が劣っていて、現在の日本語が経てきた変化を言語学は明らかにできない、ということではありません。たとえば、各地の日本語のアクセントの違いは千差万別に見えますが、これらが各地でバラバラに発生したわけではなく、琉球諸島に至るまで方言が分化する前の段階で日本語にあったアクセントに遡るものであって、今ある違いは、分化の段階で生じた些細な変化の積み重ねに過ぎない、というようなことを、日本語比較言語学(比較方言学)は明らかにしています。「方言」も、一つの言語体系を指して使われる限り、「言語」との違いは、言語学者にとっては単なる名称の違いに過ぎません。
 20世紀初頭以降の言語学は、言語間には系統関係により「受け継がれた」というだけでは説明のつかない共通点があるという観察から、言語のもつ普遍的性質や、「継承」とは異なる伝播過程の可能性へと関心をシフトさせました。したがって、現代言語学では「系統論」だけで日本語を解こうとする考え方は取りません。だいじなことは、系統論は言語研究の出発点の一つであって目標ではなく、系統仮説は、それによって説明することができる現在の日本語の言語事実に応じて評価される、ということです。

>> 言葉に興味はあるが文学があまり好きではないということは言語学分野を志望するいい動機になりませんか?

 「本を読むことがあまり好きではない、たとえば上の段落のような長い文は頭が痛くなる」というのなら、残念ながらあまり言語学には向きません。言語学は実証学ですから、何を述べるにしても言語事実の観察が必要になります。一つの文を見た(聞いた)ときに、さまざまな角度から料理してやろう、という意欲がわかなければ言語学は始まらないのです。
 言語研究を離れ、言語を習得する、という観点からみても、「読む」という作業はだいじです。慣れれば人は、同じ長さの文を、話されるより速い速度で読んで理解することができます。言語の習得は、基本的に脳にインプットされた言語データの量に大きく左右されますから、読まない、ということはそれだけで大きなハンディーを負うことになるでしょう。
 読むのが嫌いだ、という人の多くは、読みたいようなものにまだ出会っていないだけだ、という可能性もあります。気長にあれこれ読んで出会いを待つ、というのも一計です。本を読むのが好きで、文学も大好きだが、文学をああだこうだと論ずるような野暮なことはしたくない、学生時代は好きなだけ本を読み、同じ野暮なら作家がどうこうではなく言葉遣い云々で人間とはこうだ、と適当に何か論じて卒業したい、というのならそれはそれでアリです。

>> 熊本で言語学を勉強することに何か意義はありますか?

 九州の方言はけっして均一ではないのですが、その中央に位置する熊本の方言には、九州の北・西・南にそれぞれ連なるものを含むさまざまな要素がみられます。九州各地から熊大に集まる学生は誰でも、それぞれ自分の方言と共通の点と、異なる点とを否応無く自覚することになります。それは、各地の学生を迎え入れることになる熊本出身の学生でも同じことです。お互い「田舎だから」とか「遅れてるから」で片付けることができない言語の多様性を認識するチャンスに恵まれているわけです。たとえば、「次は休講バイ」と「次は休講タイ」の使い分けはどうすれば身につけることができるでしょうか。あるいは、説明できるでしょうか。言語研究で成果を挙げてきたのは、インドにせよ、欧州大陸にせよ、移民の国アメリカにせよ、多言語状況が日常的に観察できる地域だった、ということは知っておいてよいことだと思います。言語学は、他の言語に出会ったとき、それを観察し、自ら学ぶ方法を考えるのです。
 島国日本は、「単一言語使用地域である」ということを言い訳にして、外国語の習得の苦労をおざなりにしてきたように思います。しかし、インターネットは、多言語混在状況を全国津々浦々まで持ち込んでいます。外国語習得だけの問題ならば、今は都市部にいても地方にいても条件は同じだといってよいでしょう。ただ、日常的な多言語状況の延長として外国語学習を考えることができる、という点では熊本は少しだけ有利かもしれないと思います。

● 言語学は人類を幸せにするか Beauties of linguistics

(熟考中)

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